昨年度、2019年10月に全国校長会が東北であり、その足で宮城県の気仙沼や南三陸町を訪れました。震災遺構などを訪問するとともに、当時高校一年生だった語り部の方の体験談を聞きました。
少し長文になりますが、そのお話をご紹介します。
【語り部の方の体験談】
震災当日は学校が休みで、卓球部の練習のため高等学校から離れた海沿いの公民館にいました。突然襲ってきた地震に驚き、部員はすぐに卓球台の下に避難し、今まで経験したことのないかなり激しい揺れに天井が落ちてこないか心配をしました。
地震の避難訓練をしていたので、津波を避けるために避難しなければいけないことは分かっていたものの、その日は部活の顧問は不在で、どこに逃げるか迷っていました。高台の学校までは歩いて20分ほどかかるため、その間に津波が来るかもしれないと思いました。ちょうど公民館の職員さんが自分たちを見つけて、「早く避難しなさい。」と声をかけてくれました。避難する間も、強い余震があり、地面が波打っているように感じました。
公民館の近くに4階建ての建物があり、そこは津波の避難所になっていてそこに行くように指示されました。海側に行くことにためらいはあったものの、大人の指示に従って部員は全員その建物の屋上に避難しました。
津波が来るまで40分ほどあったので、本当に来るのかと思っていたところ、海の水が急に引き始めて、これは普通じゃあないなと感じました。そのうち、第一波・第二波と段々と高い波が襲ってきて、気付くとさっきまでいた公民館が流されていました。ついに水は屋上までやってきて、自分達の膝まで浸かるようになりました。その時初めて「死ぬんじゃないか」という恐怖を覚えたのです。
屋上の上に一段高いスペースがあり、そこに避難しようということになりました。あたり一面水に浸かり水の上にハシゴが突き出ていました。足を踏み外すと転落して水の中に落ちそうという恐怖の中、まずは力のある大人が登り、私達は腕を引っ張られながらその狭いスペースに上がりました。建物にガレキがぶつかって揺れているのか、余震で揺れているのか分からなかったけれどとても怖かったのを覚えています。
何時間かして水が引き始め、屋上の水はなくなったものの雪が降る寒い時期だったので、風をしのぐ場所に全員移動して、肩を寄せ合って震えていました。部活中だったためジャージ姿の自分達はとても寒かったのです。眠ると意識を失うと言われて、出来るだけ眠らないようにしていましたが、気付くと朝になっていました。
水はすっかり引いていましたが、周りの家は無くなってガレキだらけ。遠くを見ると同じように建物の屋上に避難している人が見えました。街の音が一切しない状況だったので、屋上同士の人で会話をすることができたほどでした。
自宅や学校の方向に帰りたかったのですが、近くの高台にある「ホテル観洋」に全員で向かいました。そこは一階部分が水に浸かったものの二階以上は無事で、その場所が避難所となっていました。気仙沼の町は顔見知りが多く、◯◯ちゃんといえば通じる間柄だったので、私達部員がホテルにいることを聞きつけた父親が迎えにきてくれました。
後から聞いた話では、母親が地震直後に公民館に迎えに行こうとして周囲に止められたそうです。家族ばらばらに避難したことが結果的には全員無事助かることにつながりました。
自宅は学校の裏手の高台にあったため無事でしたが、電気や水が長い間使えませんでした。小学校に自衛隊が風呂を用意してくださっていたので、水くみと風呂に入りに毎日通いました。
【インタビュー】
Q:学生は避難所でボランティアのような手伝いをすることがありましたか。
A:避難する際に野球部の部員は、高等学校下の老人ホームのお年寄りを背負って学校まで運ぶ手伝いをしていました。ただ、寝たきりの人など全ての人を助けることはできませんでした。また、学校の中のことは子ども達がよく分かっているので、椅子を運んだりものを持ってきたりする手伝いをしていました。自分の場合、自宅にいましたが食べるもの、飲むものが無かったので、近所の人同士で食料当番を作って避難所に集まった物資を運ぶことをしました。被災したからこそ近所の人の顔を知り、助け合うことができました。
Q:どうして語り部になろうと思ったのですか。
A:震災後に内陸のほうに就職をしていましたが、地元に戻るきっかけがあり、町の観光協会に入りました。地震の経験を口にすることは家族の前でもほとんどありませんでしたが、観光協会の語り部の方と一緒に観光客の人に接するうちに、自分が励まされることに気付きました。若い語り部はいませんでしたので、自分の経験を同じ若い人に聞いてもらうことに意味があると思いました。
